千利休のお墓を紹介

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大阪にある名墓

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大阪の有名人のお墓リスト

千利休のお墓/南宗寺

千利休(せんのりきゅう)のお墓

大永2年(1522年) 〜 天正19年2月28日(1591年4月21日)

幼名は与四郎(與四郎)で、のち、法名を宗易(そうえき)、抛筌斎(ほうせんさい)と号した。

号の由来は「名利、既に休す」の意味とする場合が多いが、現在では「利心、休せよ」(才能におぼれずに「老古錐(使い古して先の丸くなった錐)」の境地を目指せ)と考えられている。「利休」の名は晩年での名乗りであり、茶人としての人生のほとんどは「宗易」として送っている。

利休の父は堺で高名な大商人であり、彼は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、16歳で茶の道に入る。
18歳の時に当時の茶の湯の第一人者「武野紹鴎」の門を叩き23歳で最初の茶会を開いた。堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。紹鴎の心の師は、紹鴎が生まれた年に亡くなった「侘(わ)び茶」の祖・村田珠光(じゅこう、1423-1502)。珠光はあの一休の弟子で、人間としての成長を茶の湯の目的とし、茶会の儀式的な形よりも、茶と向き合う者の精神を重視した。座敷を屏風で四畳半に囲ったことが、後の茶室へと発展していく。

紹鴎は珠光が説く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、日常生活で使っている雑器を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努め、“侘び”を具体的に表現した。
利休は師の教えをさらに進め、“侘び”の対象を茶道具のみならず、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大した。利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を省いてイブシ銀の緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て「侘び茶」を大成させた。

活力に湧く自由都市・堺に目をつけたのが、1568年に上洛した織田信長だった。
新しい物に目がない信長は、堺や京の町人から強制的に茶道具の名品を買い上げ、武力・政治だけでなく文化の面でも覇権を目指した。信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、あらゆる面で茶の湯を利用していた。信長は堺との繋がりをより堅固にするべく、政財界の中心にいて茶人でもあった3人、今井宗久、津田宗及、利休を茶の湯の師匠に重用した。茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになった。
利休60歳の1582年6月1日、本能寺にて信長が自慢の茶道具を披露する盛大な茶会が催された。そしてこの夜、信長は明智光秀(細川ガラシャの父)の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散った。
後継者となった羽柴秀吉(豊臣秀吉)は、信長以上に茶の湯に熱心であり、秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、後に「利休十哲」と呼ばれる、細川三斎(細川ガラシャの夫)、織田有楽斎(信長の弟)、高山右近、古田織部など優れた高弟が生まれた。
1585年(63歳)、秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜った。このことで彼の名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。

天正19年(1591年)、利休は突然秀吉の勘気に触れ、堺に蟄居(ちっきょ)を命じられる。
前田利家や、利休七哲のうち古田織部、細川忠興ら大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京都に呼び戻された利休は聚楽屋敷内で切腹を命じられる。70歳であった。
切腹に際しては、弟子の大名たちが利休奪還を図る恐れがあることから、秀吉の命令を受けた上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んだと伝えられる。
死罪の理由は定かではなく、秀吉と茶道に対する考え方で対立した疑い等説が立てられているが定説はない。
利休は60歳までは先人の茶を踏襲し61歳、つまり「本能寺の変」の年より独自の茶の湯を始めたという。死までの10年間が「わび茶」の完成期だったということになる。

利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。
茶室の普請においても画期的な変革を行っている。草庵茶室の創出である。それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫した。
なかでも特筆されるべきは「窓」の採用である。師の紹鴎まで茶室の採光は障子による「一方光線」により行われていたが、利休は茶室を一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った。このことにより、茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。
後には、天窓や風呂先窓なども工夫され一層自在な採光が可能となった。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしている。

現在、大阪府堺市堺区宿院には、利休の屋敷跡と伝えられる場所があり、市の史跡として保護されている。

龍興山 南宗寺(りゅうこうざん なんしゅうじ)

概要

南宗寺
住 所 〒590-0965
大阪府堺市堺区南旅篭町東3-1-2
アクセス 阪堺電気軌道 阪堺線「御陵前駅」より徒歩3分
概 要 龍興山 南宗寺は、大阪府堺市にある臨済宗大徳寺派の寺院で三好氏の菩提寺。開山は大林宗套、本尊は釈迦三尊。茶人の武野紹鴎、千利休が修行をした、ゆかりの寺であり、沢庵宗彭(沢庵和尚)が住職を務めたこともある、堺市内では随一の名刹として知られている。
 

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