大石良雄(大石内蔵助)の墓を紹介

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大阪にある名墓

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大阪の有名人のお墓リスト

大石良雄(大石内蔵助)のお墓/一運寺

中央 : 大石 良雄(通称:大石 内蔵助)
右側 : 大石 主悦良金(大石良雄の長男)
左側 : 寺坂 吉右衛門

大石 良雄(おおいし よしお(よしたか))のお墓

万治2年(1659年) - 元禄16年(1703年)

大石 良雄(おおいし よしお(よしたか))通称:大石 内蔵助(おおいし くらのすけ)は「赤穂四十七士」(あこう しじゅうしちし)の頭梁である。
大石良昭と池田くま(池田由成の娘)の間に生まれ、後に祖父 良欽の養子となる。

良欽が死去した際に、遺領1,500石と内蔵助(くらのすけ)の通称を受け継ぎ、赤穂藩の家老見習いとなる。貞享4年(1686年)に豊岡藩京極家筆頭家老 石束 毎公の娘 りくと結婚し、長男 松之丞(後の主税良金)を儲ける。その後も長女 くう、次男 吉之進と子供を儲ける。

大石 良雄を有名にしたものとして、「元禄赤穂事件」(げんろくあこうじけん)があり、これを題材にした歌舞伎・人形浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」(通称:忠臣蔵(ちゅうしんぐら)※1)もある。「忠臣蔵」はその後も現代至るまで、小説、映画、ドラマなど様々な作品が世に送り出され、また、2013年にはハリウッド映画として「47RONIN」も上映される予定で、まだまだ人気は衰えない。


「元禄赤穂事件」とは、赤穂四十七士による吉良義央の殺害事件のことである。

元禄14年3月14日、勅使、院使が江戸城に登城して将軍綱吉が先の勅宣と院宣に対して返事を奏上する。という奉答の儀が江戸城本丸御殿白書院にて執り行われる予定であったが、同日、播磨赤穂藩主の浅野長矩が、私的な遺恨から高家旗本 吉良義央に対し江戸城殿中において刃傷に及んだ。しかし、殺害には至らず、浅野長矩はその場で取り押さえられた。

将軍徳川綱吉は朝廷との儀式を台無しにされたと激怒し、浅野長矩の即日切腹と赤穂浅野家の改易※2を命じた。大名が即日切腹というのは異例のことで、多門重共も遺恨の内容などについてもっと慎重な取調べが必要だと訴えたが、柳沢吉保によって退けられた。

赤穂藩に浅野長矩による吉良義央への刃傷事件および浅野長矩の切腹の情報が伝えられた。藩士全員に登城命令が出されたが、筆頭家老 大石内蔵助良雄を中心とした200名ほどの藩士達は、納得できるわけもなく、独自の調査に乗り出した。
そこで、吉良義央の生存や赤穂藩の改易を知った藩士たちは、赤穂城に籠城する。親族の大名家や藩内で様々な思惑が交差する中、1年にわたる籠城の末、浅野家再興を願う大石良雄は開城を決意する。

その後、大石良雄は浅野家再興を目指して奮闘するも、元禄15年7月18日、幕府は浅野長広(浅野長矩の弟)に広島藩への永預かりを言い渡した。これによりお家再興の望みを絶たれた大石良雄は、吉良屋敷への討ち入りを決意する。討ち入りに賛同した同志(赤穂浪士)だけで、元禄15年12月14日に討ち入りを決行する。吉良義央の首をとることに成功するも、その後、赤穂浪士の行為に対し賛否両論がある中、最後は切腹を命じられた。※3
大石良雄は享年45であった。

※1 「忠臣蔵」は「元禄赤穂事件」を元にした話であるがあくまでも創作(フィクション)である
※2 「改易」(かいえき)とは、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任すること
※3 「元禄赤穂事件」に関する詳細(討ち入りの際の人数や戦いの内容、その後など)は諸説あり定かではない



義士の墓由来

大阪住吉の一運寺には赤穂四十七義士のうち頭梁大石内蔵助良雄、その子大石主悦良金、及び寺坂吉右衛門の三基の墓があり随時参拝者が絶えません。と言ってもこの三基の墓は昔から一運寺にあるのでは無く当寺より北西すぐのところに龍海寺という寺がありここには四十七士の墓がずらりと並んでいたといいます。この龍海寺は天野屋利兵衛の菩提寺で利兵衛の四代後の当主が四十七士の墓を建立し、また同時に四十七士の木像も造って寺の境内にお堂を建てて祀ったといわれております。おそらく延享(一七四四〜一七四八)の頃ではないかと推測されます。

しかし龍海寺は明治維新の際廃寺になりこの四十七士の墓は他の庭石、墓石などといっしょに砕かれつつあった。それを知った一運寺の時の住職がこれは可哀そうだと驚いてずらりと並ぶ四十七基の墓の右端の大石父子と左端の寺坂吉右衛門の三基の墓だけを一運寺に運んで懇切に供養したのである。

木像の方は天王寺の茶臼山の池の畔の観音寺という寺に移され祀られているということです。
ではなぜ天野屋の四代目当主が四十七士の墓と木像を菩提寺である龍海寺に祀ったのか。当時世間では竹田出雲の假名手本忠臣蔵が大ブームを起こしていたといい、また忠臣蔵の芝居で義士のことが有名になった頃である。そこでこの当主は非常に小さく衰微していた龍海寺に義士の墓や木像を祀り今で言う「寺おこし」のためにやったのではないかと推測される。

※一運寺のホームページより抜粋

一運寺(いちうんじ)

概要

一運寺
住 所 〒558-0045
大阪市住吉区住吉2-6-23
アクセス 南海高野線「住吉東」駅、または南海本線「住吉大社」駅より徒歩約5分
概 要 一運寺は寶徳二年(一四五〇年)一蓮社光日良公上人が、法然上人ご旧跡として、法性山 宝樹院 一運寺(現在は金龍山 寶珠院 一運寺)と命名し、浄土宗の寺として再建されました。住吉大社のすぐ近くに位置する名刹です。
 

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