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お千代と半兵衛のお墓
? 〜 享保7年(1722年)
享保7年(1722年)4月6日、大坂油掛町の八百屋「川崎屋」の養子 半兵衛と妻 お千代が生玉の大仏勧進所で心中しました。
この心中事件は、その直後に紀海音(浄瑠璃作家)の「心中二つ腹帯」(豊竹座)、近松門左衛門(浄瑠璃作家)の「心中宵庚申」(竹本座)、そして、歌舞伎でも「新板宵庚申」(しんじゅうよいこうしん)として脚色されました。
特に、「新板宵庚申」は大当たりし、そのため世上に広く知らされた心中事件となりました。
また、お千代は身ごもっていたため、墓石にはその子のことを「離身童子」と記されています。
「聲應貞現信女 一蓮通月融心信士托生 離身童子」
この心中事件が起きた翌年の享保8年(1723年)の「心中物出版・上演禁止令」により、紀海音と近松門左衛門の最後の“心中物作品”になりました。
半兵衛は、もと武士の子であったが、お千代と結婚し、八百屋「仁右衛門」の養子となる。
半兵衛の旅行中に、妻お千代が養母によって離縁された。
帰ってきた半兵衛は、養母の翻意に努力するが果たせない。
母がお千代を離縁したのは、高額の持参金付の嫁を迎えたいためであった。
この真相が世間に知れて養母の立場が悪くなるのを恐れた半兵衛は、死を覚悟し、自分がお千代を離縁したと狂言する。そして、お千代を連れて密かに家を出、心中を遂げた。
庚申の夜であった。
住 所 | 〒543-0073 大阪市天王寺区生玉寺町6-26 |
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アクセス | Osaka Metro千日前線「谷町九丁目駅」より徒歩10分 Osaka Metro谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」より徒歩10分 近鉄奈良・大阪・難波線「上本町駅」より徒歩20分 |
概 要 | 開山は京都黒谷紫雲山金戒光明寺第24世三蓮社縁譽上人休岸大和尚。 当寺は、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の城下町建設の一環である寺町建設の中で現在地に創建され、当時の寺号は大福寺といったが、後に太閤秀吉の命により寶樹山銀山寺と改称された。 |
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