麻田剛立のお墓を紹介

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大阪にある名墓

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大阪の有名人のお墓リスト

麻田剛立のお墓/浄春寺

麻田 剛立(あさだ ごうりゅう)のお墓

享保19年2月6日(1734年3月10日) - 寛政11年5月22日(1799年6月25日)

豊後国杵築藩(現在の大分県杵築市)出身。元々は綾部(あやべ)姓であったという。幼名は庄吉良で、名は妥彰(やすあき)。初め璋菴(しょうあん 表記は「正庵」とも)と、後に剛立と号した。

剛立は幼時から星や空に興味を抱き、一度みた星の名は忘れなかったという。7歳の時には縁側に入る太陽光線の影を1年間観測したなどのことが伝えられている。
その後「傷寒論」などを読み、独学で天文学と医学を学んだ。

剛立の父綾部 斎(1679−1750)の父道弘は、国東郡麻田村(武蔵町)の医家に生まれる、剛立も家学としての医学を学び、明和4年(1767)34歳のとき召されて藩医となり、江戸に赴いたが藩主 親貞(ちかさだ) が大坂城加番となったため大坂に従った。
侍医としての剛立には、藩主親貞の難病治療の妙薬を作ったといわれているが、剛立自身の学問的興味は天文学に移っており、再三辞職を申し出たらしい。

明和9年、自由な研究時間を得るため、脱藩を決意し、着の身着のまま出奔し、大坂の中井竹山 履軒兄弟を頼った。(脱藩という手段をとったが故に、追っ手の目を眩ますため、この時点で名を改めたという。)
大坂に行き、そこで医師を生業としながら天文の研究を続けた。望遠鏡や反射鏡などの観測器具を改良し、その研究は「崇禎暦書」を基盤とし理論を実測で確認するという近代的なものであった。

当時使用されていた暦、宝暦暦に記されていない宝暦13年9月1日の日食を1763年に予言し、
これによって名声を高める。オランダから輸入した初の高倍率のグレゴリー式反射望遠鏡によって、日本最古の月面観測図を記す。

1778年、八年後に起こる日食の情報を三浦に手紙で送った際、その月面観測図を併記した。
この手紙は所在不明とされていたが、『月のえくぼを見た男』の作者である鹿毛敏夫が、著述のために資料収集をした時、五年目に現所蔵者と現物を発見。

月のクレーターであるアサダは、麻田剛立の名に由来する。

麻田剛立は寛政11年(1799)5月、大坂で66歳の生涯を閉じた。

墓地は浄春寺(大阪市天王寺区)にある。墓石は昭和20年(1945)3月の大空襲によって破損したため、41年9月復元再建された。墓碑は彼の一生、特に大坂を中心とした30年余の後半生の剛立の功績が述べられている。

弟子の間重富は「麻田翁杯真に己の芸を人に抱かず、又生涯此の道に好み、隠逸にして自ら楽しむ。」と述べているがそこから剛立の日常生活の様子が想像できる。
鎖国体制下で科学的精神に基づき、実験実測に一生を捧げた麻田剛立の名は永く伝えられよう。

浄春寺 夕陽苑(じょうしゅんじ せきようえん)

概要

浄春寺
住 所 〒543-0075
大阪市天王寺区夕陽丘町5-3
アクセス 地下鉄谷町線「四天王寺前夕陽丘」駅より徒歩約3分
概 要 鎌倉時代、藤原定家と並び、新古今和歌集の撰者である藤原家隆が晩年庵を結び、「契りあれば難波の里に宿り来て波の入り日を拜みつるかな」と詠み、夕陽丘の地名がおこったといわれている。現在は禅派の曹洞宗に属しているが、藤原家隆の墓所、庵跡を寺格にしたものと伝えられている。後に、実測日本地図を作製した伊能忠敬に繋がる「高橋至時」や、緒方洪庵や伊能忠敬らを輩出する礎となった、蘭学・医学・天文学など上方の先駆者達(「麻田剛立翁」など)の墓も多い。
 

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