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松尾 芭蕉(まつお ばしょう)のお墓
松尾芭蕉のお墓は、滋賀県大津市にある「義仲寺」(ぎちゅうじ)にあるが、ここ大坂の地でも、芭蕉を慕う門人や後世、芭蕉の顕彰に努めた人達により、墓が建てられている。
今回はその一部を紹介する。
寛永21年(1644年) 〜 元禄7年10月12日(1694年11月28日)
本名、松尾 宗房(むねふさ)。
伊賀国上野(三重県)出身、幼名金作。井原西鶴、近松門左衛門と並んで、元禄3文豪に数えられる。生まれは、松尾の名字を名乗ることの出来る、いわゆる農家の名家的家柄だった。12歳の時に父が逝去。18歳で藤堂藩の侍大将の嫡子・良忠に料理人として仕える。
藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩には文芸を重んじる藩風があり、芭蕉も良忠から俳諧の手ほどきを受けて詠み始めた。20歳の時に「佐夜中山集」に2句が入集している。
1672年(28歳)、初の撰集『貝おほひ』を伊賀天満宮(文芸・学問の神)に奉納。
伊賀俳壇で若手の代表格として地位を築いた芭蕉は、仕官を退き江戸へ出て、さらに俳人として修業を積む。31歳、号の桃青(とうせい)を名乗る。
1677年(33歳)に俳諧師の免許皆伝となり、宗匠(そうしょう)となった彼は、江戸俳壇の中心地・日本橋に居を定める。しかし、俳諧師になったとはいえ、俳句の指導だけでは生活が苦しいので、副業として4年近く神田上水の水道工事の事務を担当する。
当時の俳壇では、滑稽の機知や華やかさを競う句ばかりが持てはやされていた。しかし芭蕉が目指したのは、静寂の中の自然の美や、李白・杜甫ら漢詩人の孤高、魂の救済などを詠み込んだ世界。“笑い”や“楽しさ”を求める俳句ではなく、自然や人生の探究が刻み込まれた俳句であった。芭蕉は自身の手で、俳諧を深化させ精神と向き合う文学に昇華する。
1680年(36歳)、江戸の俳壇には金や名声への欲望が満ちており、宗匠たちは弟子の数を競い合うことに終始していた。この状況に失望した芭蕉は、江戸の街中を去って、隅田川東岸の深川に草庵を結び隠棲する。宗匠間の価値観では、日本橋から去ることは「敗北」と見なされたが、芭蕉の弟子達は深川への移転を大いに歓迎し、彼らは一丸となって師の生活を支援した。
草庵の庭にバショウを一株植えたところ、見事な葉がつき評判になったので、弟子達は「芭蕉庵」と呼び始め、彼自身も以降の号を“芭蕉(はせを)”とした。この頃から禅を学ぶ。
1682年(38歳)、年末の江戸の大火(八百屋お七の事件)で芭蕉庵は全焼したが、翌年弟子たちが皆で再建した。
1684年(40歳)、前の年に郷里・伊賀で母が他界したことを受け、墓参りを旅の目的に、奈良、京都、名古屋、木曽などを半年間巡る。
この旅の紀行文は、出発時に詠んだ「野ざらしを心に風のしむ身かな」の句から「野ざらし紀行」と呼ばれる。
1694年(50歳)、俳諧紀行文「おくのほそ道」が完成。
同作は400字詰め原稿用紙50枚たらずであるが、芭蕉は練りに練って3年がかりで原稿をまとめ、2年をかけて清書を行ない、この年の初夏にようやく形になった。5月、江戸を出発して西国の弟子達へ「軽み」を伝授する旅に出るが、4ヶ月後に大坂で病に伏し、御堂筋の旅宿・花屋仁左衛門方にて、10月12日に永眠。享年50歳だった。
辞世の句として、「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」と詠んだ。
「私を木曽義仲公の側に葬って欲しい」という遺言に従って、没した夜に弟子10名が亡骸を川舟に乗せ、淀川を上って翌日に義仲寺に到着。
14日夜に門弟80人が見守る中、義仲の墓の隣に埋葬された。遺髪は旧友・服部土芳の手で故郷の伊賀に届けられ、松尾家の菩提寺・愛染院に造られた「故郷塚」に納められる。
芭蕉没後8年目の1702年に「おくのほそ道」が刊行された。
芭蕉が生涯に詠んだ句は約900句。
紀行文はすべて死後に刊行された。侘び・さび・細み”の精神、“匂ひ・うつり・響き”といった嗅覚・視覚・聴覚を駆使した文章表現、そして「不易流行」「軽み」。
この芭蕉の感性は多くの俳人を虜にし、いつしか「俳聖」と呼ばれるようになった。
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住 所 | 〒543-0051 大阪市天王寺区四天王寺1-11-18 (地図を見る) |
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アクセス | Osaka Metro谷町線「四天王寺前夕陽ヶ丘」駅より徒歩5分 | |
四天王寺は、推古天皇元年(593年)に建立。「日本書紀」によると、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫り「もし、この戦いに勝たせていただけるなら、四天王を安置する寺院を建立しましょう。」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために建立された。 |
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住 所 | 〒543-0075 大阪市天王寺区夕陽丘町5-3 (地図を見る) |
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アクセス | Osaka Metro谷町線「四天王寺前夕陽丘」駅より徒歩約3分 | |
鎌倉時代、藤原定家と並び、新古今和歌集の撰者である藤原家隆が晩年庵を結び、「契りあれば難波の里に宿り来て波の入り日を拜みつるかな」と詠み、夕陽丘の地名がおこったといわれている。現在は禅派の曹洞宗に属しているが、藤原家隆の墓所、庵跡を寺格にしたものと伝えられている。後に、実測日本地図を作製した伊能忠敬に繋がる「高橋至時」や、緒方洪庵や伊能忠敬らを輩出する礎となった、蘭学・医学・天文学など上方の先駆者達(「麻田剛立翁」など)の墓も多い。 |
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住 所 | 〒543-0076 大阪市天王寺区下寺町2丁目2-30 (地図を見る) |
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アクセス | Osaka Metro谷町線「四天王寺前夕陽丘」駅より徒歩約4分 | |
正式名称を「仏智山 円成院 極楽寺」と言う時宗のお寺。「松尾芭蕉」や「植村文楽軒」など、歴史人物のお墓も多い。 |
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住 所 | 〒543-0075 大阪市天王寺区夕陽丘町1-18 (地図を見る) |
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アクセス | Osaka Metro谷町線「四天王寺前夕陽丘」駅より徒歩約3分 | |
宝光山 梅旧禅院は、曹洞宗の寺院。松尾芭蕉が南御堂近くの花屋仁左衛門宅で亡くなった時、当時の梅旧禅院の住職がお経を読んだと『花屋日記』にある。また、境内には「芭蕉堂」があり、中には「芭蕉像」が安置されている。この像は、もとは円成院に志太野坡が芭蕉の墓や句碑を建てた折、芭蕉の木造を寄贈したが、この木造が粗末に扱われたため、これを知った不二庵二柳が怒り、芭蕉像を引き取り梅旧禅院に芭蕉堂を建て、安置したと伝わる。 |
上記以外にも瑞龍寺(鉄眼寺)や吉田墓地などのお寺にも、松尾芭蕉のお墓がある。
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